あの日。3月といえばあの日。3月11日。東日本大震災の日です。うまく言葉にできるかわからないけどあの日についてちょっと書こうと思います。みなさんはあの日、あの時、何をしていましたか?わたしは東京に住んでいてちょうど音楽をお休みしていた時期で普通に会社で働いていました。会社の場所は恵比寿でした。あの瞬間、いままで味わったことのない恐怖だったのを覚えています。後々、一人でいるときじゃなくてよかったなと。小学生のころ避難訓練の意味がよくわかりませんでした。何のためにやっているんだろう???使うことなくない?この日初めてあの避難訓練がとても意味があったことなんだと気づきました。初めてデスクの下にもぐり頭を守りました。パソコンとか書類が落ちて来て本当に怖かった。(今回はわたしの気持ちだけ書かせてください)揺れがおさまってから建物の外に出てしばらく待ちました。いつまでこのままいればいいのかわからず、とりあえず会社の指示に従いその日は早めに帰ることになりました。そこからがわたしのさらに大変なときとなりました。電車は止まり完全に駅には入れず、バスも満員で乗れずバス停には多くの人、タクシーも並びに並んで乗れる雰囲気ではありませんでした。途方に暮れるとはこのことか・・・会社から帰るので自分一人でこれからどうするか決めなきゃいけなくて本当に不安だったのを覚えています。いつになったら帰れるかわからないけど家まで歩こう。他の方法が見つからず帰るにはそれしかないと思いました。ここで大問題発生!!!全く道がわからない。。。普段電車しか乗らないし、どこに行けばどこのに着くのかとりあえず行ったことのある駅まで歩こう!!そんな感じだったと思います。今は住んでないので住んでいた場所をいうと大田区でした。会社を出たのが17:00頃だったかな?日付が変わる前に家につければいい方かなととにかく歩きました。遠回りしたことでしょう。恵比寿から自由が丘を目指し、自由が丘から自分の家の沿線の駅を目指せば帰れるだろうと。本当は地図を見ながら帰れればよかったんだろうけど充電がなかった記憶があります。だから電話も出来ず携帯で地図も見れずの状態です。(このときスマホだったのかガラケーだったのか覚えていない)おなかがすいた。何か買おうと途中のコンビニに入った。想像がつくとは思いますが、本当に何もない!!!電気も十分についてなかったような気がします。今まで経験したことなさすぎてもうどうしていいのやら。記憶からいくとその日のうちには帰宅できたような気がします。でもまたいつ揺れがくるかわからず一人って心細いな・・・と。それから会社もしばらく休みになりました。1週間くらいだったかな?外に出るわけにもいかずひたすら家にいるしかなくテレビをつければ被災地の映像が流れてわたしは見ていられませんでした。このときはひたすらお笑いのYouTubeを見ていた気がします。この時にはまったのがチュートリアルさんでしたね。本当に気持ち的に助けられたと思います。テレビではいろいろな番組が自粛となり、ずっとテレビはつけずに過ごしていた気がします。いろいろ忘れてきている感じもするけど今覚えていることを書き留めておこうと思い、このブログを書きました。これはあくまであの日のわたしの出来事です。10年もたったのか。それが正直な気持ちです。でも忘れてはいけないんだろうなと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
らびゅ塩野真那
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